那須野の風に乗って

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水戸黄門の実像・・・歴史解説員養成講座を覗く


歴史解説員養成講座に参加するまで ・・・水戸光圀(黄門)について流し読みでもしていただければ幸いです
当ブログは本来、地域紹介ブログなので、たまには花から離れてみたりします。少しお堅い記事になるかも。
隣々の那珂川町「なす風土記の丘資料館」の企画で町の歴史文化施設を訪ねて来る人たちの歴史解説員の養成講座が春から秋にかけて週一回行われています。7月の第一週は「水戸光圀公の考古学」という面白そうなテーマだったので、那須塩原市民の僕は受講する資格がなかったのですが電話で特別に参加を取り付けました。僕自身は解説員に興味はなく講演の内容が楽しみで参加しました。

当日訪れると定年退職したと思われる年配の方たちが20名近く集まっていました。定年後のボランティア活動として歴史解説員を志しているのでした。周囲の話が耳に入ってきましたが、流石にこの地方の歴史や民俗に詳しそうでした。退職後、ぼんやり家で過ごす生活から脱却したいのでしょう。
講師は主任学芸員の眞保昌弘氏でしたがユーモアを交えた講義は飽きさせることなくスライドなどを通した解説は専門的な領域のわずかに一歩手前で留まっていました。こうした分野は究明の度合いを極めればきりがなく複雑多岐になってゆくので、解説員という専門分野を覗いた程度の内容になるのはやむを得ないでしょうし、それ以上は個人差が出てしまうので平均的な養成は無理でしょう。あとは各人の個性がいかに発揮されるかによって違ってくるでしょう。みなさん歴史の好きな方ばかりなのでどんな解説員になるか楽しみです。
講師の主任学芸員の眞保昌弘氏とはどこかでお目にかかったようなのですが、はっきり思い出せません。


講義が行われた なす風土記の丘湯津上館


水戸家の誕生と徳川御三家
徳川家康には子供が16人あり、うち男子は11人だった。本来なら長男が家督を継ぐのだが長男の信康は織田信長により自害に追いこまれ、二男秀康は秀吉の養子となったが秀吉に子が生まれると北関東の結城家に再度養子として封じられた。結果三男の秀忠が家康の後を継いで第二代将軍となった。その後四男~八男まで人材的に恵まれなかったり関ヶ原で戦死したりと生き残ったのは九男義直、十男頼宜、十一男頼房の3人で義直は尾張へ、頼宜は紀州へ、そして頼房が水戸に所領が与えられ、徳川御三家となった。尾張と紀州は格こそ違い共に武家官位は権大納言であったが水戸は権中納言で御三家では最も格下であった。後でも述べるがそれが「黄門]という名の由来にも繋がってくる。

 

水戸家と光圀(水戸黄門)
初代藩主頼房の三男として生まれる。水戸家は御三家の中でも将軍を出せない格下であり江戸常駐としての扱いであったが、その代償として参勤交代は免除されていた。色々の事情があるが当時の二代将軍家光の命で光圀は6歳の時に兄の頼重を差し置いて水戸家の嫡子に選ばれる。その後、正に江戸定府となるが少年時代の光圀はいわゆる不良で、御三家をかさに好き勝手な言動や行動をしていたらしい。しかし、頭のほうは良く学問好きで唐代の文化にはとりわけ理解が深く、18歳の時に読んだ司馬遷の「史記」の中の伯夷伝に自分と同じ境遇で家督を継いだ国が大いに乱れたという記載を見て心を打たれ自分の置かれた立場は正道を外れているとして兄に水戸家を名乗ることを譲っている。しかし、水戸家の嫡男の身分は幕府の決定であり捨てることはできなかった。

その後の光圀は人が変わったように学問にも礼節にも励むようになり、当時では難解な則天文字などにも造詣が深かった。この頃"史局"を設けて有名な「大日本史」の編纂にも取り掛かっている。そして、頼房の生存中に63歳で二代目水戸藩主となった。兄は高松藩の藩主となっている。


    
       大日本史全397巻                現在は偕楽園の中にある

黄門の名の由来と諸国漫遊の真実
水戸黄門の名は、光圀が徳川御三家の一統である水戸藩の藩主であり、武家官位として権中納言を名乗っていたことから、「徳川光圀」と直言することを避けるために、藩名である「水戸」と、唐の官位名で中納言と同じ地位の「黄門」をとって誰にも呼び易い別称を付けて広く用いらた。これは水戸家が御三家最下位官位中納言だからできた称号であった。

大正から昭和の初めごろには「水戸黄門漫遊記」が庶民の間で人気になっていて、その流れは現在のTBSのドラマにも及んでいる。メディアとしては、講談・歌舞伎・演劇・小説・映画・テレビドラマ・漫画・アニメなどと広範囲で、話の大筋は商家の隠居に身を窶した水戸黄門が助さん格さんを供に諸国を旅し、行く先々で地方の悪政を正したり、人情の機微に触れたりするもので、TBSのテレビドラマなどは時として現在のお役人に対する批判的な内容になることもあり、一概に低俗番組とも言えない面がある。



江戸常駐の水戸藩主は全国行脚はできなかった
しかし、この一連のお話は全てフィクションで、江戸常駐だった黄門は絶対に諸国を歩き回ることはできなかった。当時の水戸の所領であった那珂川と船で結ばれていた那須を中心にした一帯の巡察のみが許されていただけなのである。参勤交代は免除されていてもこれでは半ば人質みたいな感すらする。
それではなぜこうした物語が生まれたかと言えば江戸に常駐するだけで参勤交代を免除されていた黄門がいつも江戸にいることから、庶民は水戸徳川家を副将軍と愛称するようになったのであると思われる。実際に諸国を動き回ったのは光圀の補佐官ともいえる佐々宗淳なる人物で、この人が助さんのモデルで全国を歩き回って光圀へ様々な情報をもたらしていた事が「水戸紀年」の記録でも明らかになっている。格さんこと格之丞のモデルも当然あったのだがこれはガードマン的な剣術に優れた家臣がいて、そのイメージから生まれたと思われる。
他の大名と違っていつも江戸で見かける水戸光圀黄門さまは庶民に愛されていたことからこうした物語ができあがったと思われる。徳川には「副将軍」という役職はなく、庶民に人気があった水戸黄門だからこそ呼ばれるようになった名前であるが、印籠をかざして悪人をひれ伏させるといった事は全くの作り話で、実際にはあり得ない。

水戸光圀の発掘活動で那須一帯の古代文化圏の存在が明らかになった
今回の講座はここからが本番で内容も専門的に近くなり記事も長くなるので、興味深いものを抜粋して載せてみました。主に光圀の考古学への関心と発掘調査による那須文化圏の存在についてです。室内での映像や画像は講義中などで条件が悪く芳しくありません。


那須国造奴の碑と日本最古の碑文 (国宝)
碑文の要訳
永承元年(689)4月、飛鳥浄御原大宮から那須国造であった那須韋提(いで)は、評督という官職を授か
りました。そして、庚子(文武四年、西暦700年)正月二日辰のときに亡くなりました。そこで那須国造家の
意斯麻呂らが碑を立てて個人の遺徳を讃えました



今から1,400年前 那須国を治めていた那須意斯麻呂が 父親の死を悼み建碑したものでその後、江戸時代になってからはこの湯津上村(現在は大田原市に統合)は水戸藩の管轄下に入った。ある時 旅の僧によって草に埋もれていた石碑が発見された際に 馬頭村 (現在の馬頭町) の古老により貴重なものであることが解り その話が水戸光圀に伝わった事から、水戸光圀はこの碑にお堂を造り安置した。元禄4年(1691年)のことであった。石碑の上に笠状の石が載せられていたため笠石と呼ばれるようになり 後には笠石神社として発展し 水戸藩の管理によって周辺の人々の信仰を集めるようになったのである。碑文は六朝風の書体で書かれた貴重なもので、宮城県の多賀城碑、群馬県の多胡碑と並んで日本3古碑の一つに数えられ、この碑が3古碑の中では最も年代が古く 昭和27年に国宝に指定され 厳重な管理がなされている。拝観は有料で一般の写真撮影は禁止されている。

講師の話ではこの碑文だけを見てもこれだけの内容の文章と書体を石碑に刻んだ技術と教養は中央の大和朝廷をも凌ぐものであり、他の発掘品を見てもこの那須地域には特殊の文化圏が存在したのは間違いないという。何故なら朝廷に収めるべきものがそこにはなく那須で出土していたり、出土品の焼にしても装飾にしても畿内出土品を超越した技術だそうである。又、古代に が採れたのは下野の国那須と陸奥の国のみであり、金を税の代りにできたのはこの2国だけであった。それがやがて遣唐使の資金となって唐に金がもたらされ、シルクローで広まり、やがて唐の文物が日本に輸入され那須にも伝播されたとみられる。

光圀の考古学への関心は那須国造奴の碑発見前後から高揚されてゆき、那須地域や地元の常陸においても幾つかの発掘を行っている。その代表的なものが湯津上村の今回の講演場所の資料館近くにある前方後円墳の上侍塚と下侍塚である。
光圀の発掘パターンは日本初ともいえるもので氏素性を調べ、記を作り、納め、修造し祠を作り、そこに別当を置くといった念の入れ方であった。こうして光圀の文化財保護活動は終生続いたのである。

今でこそ一地方の平凡な佇まいであるが、古代の那須は那珂川を中心に発展し、各街道もここから四方に延びている。全ての道はローマに通じるではないが日本古代の『東日本の全ての道は那須に通じる』といってよく、中央政府に組しない帰化人を中心にした大きな文化圏でがあったらしい。

国宝那須国造奴の碑が安置されている笠石神社


光圀と則天文字
唐の文学や歴史に詳しかった光圀は那須国造奴の碑文に則天文字が使われているのを見て、この碑がとてつもなく歴史上の価値があるとみて手厚い保護をしたのである。光圀は若い頃から則天文字に明るく、光國から光圀に替えたのはこの石碑発見の遥か前であったが石碑に圀もあるのを見て、この石碑の文化遺産的価値にいっそう惹かれたに相違ない。
               17の則天文字



参考資料
スライドや講義中の室内撮影などで画像はあまり良くありません

関東とその以北の全ての道は那須に通じている

下野国那須を中心とした古代文化圏
講義中のスライド画面の撮影で、不鮮明はご容赦ください


講義風景と資料館展示室
講義会場にて



展示室の様子。那須国造奴の碑のレプリカや佐々宗淳の様々な文献などもある


記事が長くなりましたので講義風景の動画は下のブログに載せました。


気ままに行こうか


2011/07/18   地域・歴史     180TB 0   180Com 14  

Comment

 

koyuko1052   勉強   2011/07/18   [ Edit ]

学生時代、歴史が苦手だった私ですが、ご丁寧な
分かりやすい説明で、改めて勉強しました。

合わせてNHKの大河ドラマを見ているので大いに参考になりました。
有難うございました。

つれづれにⅡ1053   徳川家   2011/07/18   [ Edit ]

(◎´∀`)ノこんばんは~松ぼっくりさま~♪

今まで那須について全く無知でしたぁ。
「東日本の全ての道は那須に通じる」帰化人を中心と
した文化圏だったのですか!
草に埋もれていた那須国造奴の碑~日本最古だったのですね。
徳川御三家~水戸光圀全国漫遊は無かったと言われていますが、したくても出来なかったのですね~

平安の時代、金は下野の国那須と陸奥の国のみでしか
採取出来なかった~そうなんだぁ^^。

テレビ、水戸黄門をよろこんで見ていますが
実像を詳しく知ることができ、有難うございました。
合わせ講義の動画もあってとてもよく理解出来ました。

松ぼっくり1054   koyuko さんへ   2011/07/18   [ Edit ]

いつもコメントありがとうございます。

江戸時代の中央の歴史は家督相続の歴史ともいえるもので
やたら家系や人物が多く出てきてややこしいですよね。
それに輪をかけているのが江戸初期の頃の人脈で
秀吉と家康の政略的な婚姻関係ですね。大河ドラマも
何度かこの時代を描いていますね。人物の関係が複雑です。

水戸光圀の時代は元禄時代で犬公方と言われた綱吉が将軍で
赤穂事件の起こった時代でもあり、平和だったそれまでの
幕府にとっては唐突な出来事だったでしょうね。

この記事が少しでもお役にたてて良かったです。

松ぼっくり1055   つれづれにⅡさんへ   2011/07/18   [ Edit ]

コメントいつもありがとうございます。

いやぁ~ つれづれにⅡさんのコメントでの要点の
纏め方には感服しました。
こんな長い記事を簡単に要約できる頭の切れには
外交辞令なんかではなく、さすがだと思います。
僕のコメント返しも短く纏めます。
動画までも見ていただきありがとうございました。

マオママ1056   水戸   2011/07/19   [ Edit ]

徳川300年の楚を築いた家康
人質時代を経て嫡男に家督相続させ御三家でサポート
素晴らしい知恵者ですね^^

マオママは勧善懲悪の時代劇が好きです~

光圀は大日本史編纂が有名です
きっと諸国放浪へのドラマになったんでしょうね
でも国の字が則天文字の圀から取った事
奥州以外に那須にも金脈が有ったなど勉強になりました
難しい話ですが興味津々で読ませていただきました
楽しいですね~

松ぼっくり1057   マオママさんへ   2011/07/20   [ Edit ]

いつもコメントありがとうございます。

長たらしい記事を読んでいただきありがとうございます。
家康は男子が11人もいたのですが
当時の政変などで死亡した子もあっって意外に優れた人材は少ないですね。
三代、四代で基礎を固めたと言っていいでしょうね。

末っ子の頼房が水戸藩主となり光圀を生んだのは
徳川の歴史の中でも快事の一つになると思います。

妙道寺1058   蓮の花   2011/07/20   [ Edit ]

台風6号の中
蓮の花が咲きだしました。
花の色合いに癒されます。
ぜひ、またお出かけ下さい。

松ぼっくり1059   妙道寺 ( ご住職夫人 )様   2011/07/20   [ Edit ]

ご丁寧に開花情報をいただきまして恐縮です。

枝垂れ桜から藤の花とブログに掲載させていただきましたが
皆さんから美しい庭園への賞賛が沢山寄せられました。
蓮の花が咲き始めたとのこと、天候の安定を見計らって近いうちに
是非拝見させていただきます。ありがとうございました。

あきこさん1060   こんばんは   2011/07/20   [ Edit ]

お世話さまになります

水戸に関しての社会科のお勉強に大変なりました。
水戸の光圀はお若い頃はともかく、ご立派な方ですね。

(兄嫁は水戸の徳川と馴染みのあった助川の出です。Gooコメントの件はありがとうございます)

松ぼっくり1061   あきこさんへ   2011/07/21   [ Edit ]

コメントありがとうございました。

こんな勉強めいた記事など学生ではあるまいし
普通は今更読む気もしないと思いますが
お付き合いしていただいてありがとございます。

水戸光圀は江戸常駐の若い頃、江戸市中では
不良のように振る舞い、辻切りめいた事もやったと
今回の講師が言っていましたが、何故か結構荒んだ
時代があったのですね。後年の立派な業績からは
俄かには信じられませんが…

義姉さんは水戸助川のご出身ですか。いい所です。

アシタカ1062     2011/07/21   [ Edit ]

こんばんは。
水戸黄門さま、諸国行脚はしなかったのは知ってましたが、貴重な史跡の研究もしてたのは知りませんでした。
古代の那須は重要な地だったのですね、勉強になりました。
水戸黄門のTVシリーズは今回ので終わりみたいですね。

松ぼっくり1063   アシタカさんへ   2011/07/21   [ Edit ]

お忙しい処をコメントありがとうございます。

花の記事の方が楽しいのですが、時にはこうした
事で遊んでいます。
花もアシタカさんの画像をみると、
同じマクロレンズを使っているのに、その差が歴然で
自信喪失になりますが、上には上があるものだと
改めて認識しています。旬の花時計は傑作中の傑作ですね。

那須の那珂川沿いには僕が子供の頃から土器や矢じりが
出土すると評判だったのですが
その頃は古代那須の文化圏など全く知りませんでした。

TBSの「水戸黄門」は今のシリーズで終わるんですか?
知りませんでした。ずいぶん長く続いたものですね。

テトラ1064   歴史解説員養成講座   2011/07/21   [ Edit ]

歴史に弱い私ですが、松ぼっくりさんの分かり易く要点ごとにまとめた文を読み教えられることばかりでした。

特に水戸光圀の実像や「関東とその以北の全ての道は那須に通じている」ことなどとても興味深く読みました。

本当に為になる歴史の勉強をさせて頂き有難うございました。

松ぼっくり1065   テトラさんへ   2011/07/21   [ Edit ]

コメントありがとうございます。

長い記事を読んでいただきありがとうございます。
周知の事柄にちょっぴり味付けしただけで
新しい事を述べたわけではなく講義の内容を
項目別に分けてなるべく読み易くしただけです。

地方の文化施設を訪ねて来る人たちは、それぞれ
自分なりの興味のある事柄には詳しいので
いろんな質問が出るので、解説員になったら
ボランティアだからなどと言っていられなく
なると思うので、受講している方たちはのうち
何人が解説員になるかはわかりませんが
最初のうちはたいへんなのでは・・・


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