那須野の風に乗って

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源有綱の最期 (200字ショートショート 34)



塩原温泉に昔から伝承されている物語をショートショートにしてみました
身を隠した村での温かい米の差し入れがあだとなって命を落とした皮肉な話
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この伝承は史跡鍾乳洞「源三窟」として塩原温泉の観光スポットです
( 読み方は「げんざんくつ」です )

この伝承について疑問点を2,3取り上げてみました
先ず米についてですが米の研ぎ汁が白く濁るほどの精白米を食べるようになったのは
一般に江戸時代の明暦年間 (1655~1658年) 頃からだと言われています。しかし、平
安時代でも貴族の間では白米に近いものが食べられていたとの説もあります。それは
あくまでも 貴族であって庶民は玄米をそのまま焼いたり、 蒸したりして食べていたそう
す。源有綱は義経に就いて歴戦しましたが年齢も義経とほぼ同じで、 保元・平治の乱
で戦功があり平清盛に一時は信頼された源三位頼政を祖父に持つ良血ですから贅沢
な白米を食していたかもしれません。 しかし逃亡先の山里塩原に白米が存在したかと
いえば疑問で塩原要害の城主塩原八郎家忠からの差し入れがあったとしても 一山奥
の要害に精米技術が伝わっていたとは考え難く この米の研ぎ汁に関する伝承は後世
の創作とみるのが妥当ではないかと思います。史跡といっても伝説に近い話です。

また、かなり信頼性のおける史書である『吾妻鏡』等の記録では有綱は今の関西地方
が活動の場であったらしく、頼朝に追われた義経と別れた有綱は郎党と共に大和国宇
陀郡に潜伏したが、文治2年(1186年)6月16日、義経の残党を捜索していた北条時定
の手勢に発見され、合戦の末に敗北し深山に入って自害したと記されていて、塩原に
潜伏したことにはなっていません。どちらが真実を伝えているのでしょうか・・・

もうひとつの疑問は洞窟を発見され頼朝の手の者(北条方)の襲撃にあったのですが
戦いに敗れ自害したことになっています。どういうわけかこの種の伝承は最期に自害
が多いのですが義経は別として有綱の場合狭い洞内で不意撃ちを食らったのですか
ら 『自害』 する暇はなかった筈です。 たとえ洞外に出て戦っても、家来が何人いたか
不明ですが自害には少々の時間を要するのが普通で、 激しい突発的戦闘の中では
無理と見て私は自害ではなく討ち死にとしました。


尚、 源三窟という名前の由来は、 有綱の祖父源三位頼政(げんさんみよりまさ)の一
族が都を逃がれ塩原に辿り着いた時に立ち寄ったのがこの鍾乳洞で、当初は源三位
穴と呼ばれましたがいつ頃からか今の『源三窟』の名前に替わったようです。




源三窟の名の由来である源三位頼政は相関図の中ほどに見えます。
三位というのは朝廷から賜った官位であり頼政は上から4番目に
高い従三位で中納言という身分ですが末路は哀れでした





2011/01/09   Novels    

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