那須野の風に乗って

2011年07月の記事一覧

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矢板妙道寺の鉢ハス





先日、ご住職の奥様からハスが咲き始めましたとのお知らせがありましたので 隣の矢板市にある
妙道寺に早起きして出かけました。 お寺さんではよく見る鉢ハスで、 蓮用の大型の鉢にハス苗を
植え,育てるものです。池と違って好みの場所に並べることができるので庭造りに利点があります。
10数鉢が置かれていて半分位が開花していました。 紅色や淡黄白色、 古代ハスもモミジの木の
傍らにあるといった面白い取り合わせで、 撮ったハスの上方は空なのも鉢ハスならでのものです。
奥様の話ではハスの肥料にはイカや煮干しなどの動物性のものが最適だそうですから驚きです。
撮影後美人で気さくな奥様にお茶などご馳走になり無信心の僕ですが色々お話を伺って帰りました



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下の小画像をクリックしてください
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鉢のハスですから池の風景はありません
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2011/07/28       182TB 0   182Com 14  

上三依水生植物園夏の花々

文字色

日光上三依水生植物園は旧会津西街道沿いの男鹿川の清流に沿って造られています。
水生植物園という名前ですが、 園内には水生植物池以外にも 湿生草原や乾生草原、
乾生高木林、高原のお花畑 etc. と各エリアごとに自生した感じで 植栽されています。
6月に来れば評判のヒマラヤの青いケシが見られたのですが毎年見そびれています。



上三依水生植物園エリアマップ




BGM用画像
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下の小画像をクリックしてください
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ホタルブクロ
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水生植物池にて (まだ睡蓮は満開ではなかった)
下の画像を連続クリックしてください


この時季は主に睡蓮



園内から見た男鹿川





水生植物園へのアクセス







スライドショーにない画像を含めデジブックにまとめました。
お暇がありましたらご覧ください






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2011/07/24       181TB 0   181Com 12  

水戸黄門の実像・・・歴史解説員養成講座を覗く


歴史解説員養成講座に参加するまで ・・・水戸光圀(黄門)について流し読みでもしていただければ幸いです
当ブログは本来、地域紹介ブログなので、たまには花から離れてみたりします。少しお堅い記事になるかも。
隣々の那珂川町「なす風土記の丘資料館」の企画で町の歴史文化施設を訪ねて来る人たちの歴史解説員の養成講座が春から秋にかけて週一回行われています。7月の第一週は「水戸光圀公の考古学」という面白そうなテーマだったので、那須塩原市民の僕は受講する資格がなかったのですが電話で特別に参加を取り付けました。僕自身は解説員に興味はなく講演の内容が楽しみで参加しました。

当日訪れると定年退職したと思われる年配の方たちが20名近く集まっていました。定年後のボランティア活動として歴史解説員を志しているのでした。周囲の話が耳に入ってきましたが、流石にこの地方の歴史や民俗に詳しそうでした。退職後、ぼんやり家で過ごす生活から脱却したいのでしょう。
講師は主任学芸員の眞保昌弘氏でしたがユーモアを交えた講義は飽きさせることなくスライドなどを通した解説は専門的な領域のわずかに一歩手前で留まっていました。こうした分野は究明の度合いを極めればきりがなく複雑多岐になってゆくので、解説員という専門分野を覗いた程度の内容になるのはやむを得ないでしょうし、それ以上は個人差が出てしまうので平均的な養成は無理でしょう。あとは各人の個性がいかに発揮されるかによって違ってくるでしょう。みなさん歴史の好きな方ばかりなのでどんな解説員になるか楽しみです。
講師の主任学芸員の眞保昌弘氏とはどこかでお目にかかったようなのですが、はっきり思い出せません。


講義が行われた なす風土記の丘湯津上館


水戸家の誕生と徳川御三家
徳川家康には子供が16人あり、うち男子は11人だった。本来なら長男が家督を継ぐのだが長男の信康は織田信長により自害に追いこまれ、二男秀康は秀吉の養子となったが秀吉に子が生まれると北関東の結城家に再度養子として封じられた。結果三男の秀忠が家康の後を継いで第二代将軍となった。その後四男~八男まで人材的に恵まれなかったり関ヶ原で戦死したりと生き残ったのは九男義直、十男頼宜、十一男頼房の3人で義直は尾張へ、頼宜は紀州へ、そして頼房が水戸に所領が与えられ、徳川御三家となった。尾張と紀州は格こそ違い共に武家官位は権大納言であったが水戸は権中納言で御三家では最も格下であった。後でも述べるがそれが「黄門]という名の由来にも繋がってくる。

 

水戸家と光圀(水戸黄門)
初代藩主頼房の三男として生まれる。水戸家は御三家の中でも将軍を出せない格下であり江戸常駐としての扱いであったが、その代償として参勤交代は免除されていた。色々の事情があるが当時の二代将軍家光の命で光圀は6歳の時に兄の頼重を差し置いて水戸家の嫡子に選ばれる。その後、正に江戸定府となるが少年時代の光圀はいわゆる不良で、御三家をかさに好き勝手な言動や行動をしていたらしい。しかし、頭のほうは良く学問好きで唐代の文化にはとりわけ理解が深く、18歳の時に読んだ司馬遷の「史記」の中の伯夷伝に自分と同じ境遇で家督を継いだ国が大いに乱れたという記載を見て心を打たれ自分の置かれた立場は正道を外れているとして兄に水戸家を名乗ることを譲っている。しかし、水戸家の嫡男の身分は幕府の決定であり捨てることはできなかった。

その後の光圀は人が変わったように学問にも礼節にも励むようになり、当時では難解な則天文字などにも造詣が深かった。この頃"史局"を設けて有名な「大日本史」の編纂にも取り掛かっている。そして、頼房の生存中に63歳で二代目水戸藩主となった。兄は高松藩の藩主となっている。


    
       大日本史全397巻                現在は偕楽園の中にある

黄門の名の由来と諸国漫遊の真実
水戸黄門の名は、光圀が徳川御三家の一統である水戸藩の藩主であり、武家官位として権中納言を名乗っていたことから、「徳川光圀」と直言することを避けるために、藩名である「水戸」と、唐の官位名で中納言と同じ地位の「黄門」をとって誰にも呼び易い別称を付けて広く用いらた。これは水戸家が御三家最下位官位中納言だからできた称号であった。

大正から昭和の初めごろには「水戸黄門漫遊記」が庶民の間で人気になっていて、その流れは現在のTBSのドラマにも及んでいる。メディアとしては、講談・歌舞伎・演劇・小説・映画・テレビドラマ・漫画・アニメなどと広範囲で、話の大筋は商家の隠居に身を窶した水戸黄門が助さん格さんを供に諸国を旅し、行く先々で地方の悪政を正したり、人情の機微に触れたりするもので、TBSのテレビドラマなどは時として現在のお役人に対する批判的な内容になることもあり、一概に低俗番組とも言えない面がある。



江戸常駐の水戸藩主は全国行脚はできなかった
しかし、この一連のお話は全てフィクションで、江戸常駐だった黄門は絶対に諸国を歩き回ることはできなかった。当時の水戸の所領であった那珂川と船で結ばれていた那須を中心にした一帯の巡察のみが許されていただけなのである。参勤交代は免除されていてもこれでは半ば人質みたいな感すらする。
それではなぜこうした物語が生まれたかと言えば江戸に常駐するだけで参勤交代を免除されていた黄門がいつも江戸にいることから、庶民は水戸徳川家を副将軍と愛称するようになったのであると思われる。実際に諸国を動き回ったのは光圀の補佐官ともいえる佐々宗淳なる人物で、この人が助さんのモデルで全国を歩き回って光圀へ様々な情報をもたらしていた事が「水戸紀年」の記録でも明らかになっている。格さんこと格之丞のモデルも当然あったのだがこれはガードマン的な剣術に優れた家臣がいて、そのイメージから生まれたと思われる。
他の大名と違っていつも江戸で見かける水戸光圀黄門さまは庶民に愛されていたことからこうした物語ができあがったと思われる。徳川には「副将軍」という役職はなく、庶民に人気があった水戸黄門だからこそ呼ばれるようになった名前であるが、印籠をかざして悪人をひれ伏させるといった事は全くの作り話で、実際にはあり得ない。

水戸光圀の発掘活動で那須一帯の古代文化圏の存在が明らかになった
今回の講座はここからが本番で内容も専門的に近くなり記事も長くなるので、興味深いものを抜粋して載せてみました。主に光圀の考古学への関心と発掘調査による那須文化圏の存在についてです。室内での映像や画像は講義中などで条件が悪く芳しくありません。


那須国造奴の碑と日本最古の碑文 (国宝)
碑文の要訳
永承元年(689)4月、飛鳥浄御原大宮から那須国造であった那須韋提(いで)は、評督という官職を授か
りました。そして、庚子(文武四年、西暦700年)正月二日辰のときに亡くなりました。そこで那須国造家の
意斯麻呂らが碑を立てて個人の遺徳を讃えました



今から1,400年前 那須国を治めていた那須意斯麻呂が 父親の死を悼み建碑したものでその後、江戸時代になってからはこの湯津上村(現在は大田原市に統合)は水戸藩の管轄下に入った。ある時 旅の僧によって草に埋もれていた石碑が発見された際に 馬頭村 (現在の馬頭町) の古老により貴重なものであることが解り その話が水戸光圀に伝わった事から、水戸光圀はこの碑にお堂を造り安置した。元禄4年(1691年)のことであった。石碑の上に笠状の石が載せられていたため笠石と呼ばれるようになり 後には笠石神社として発展し 水戸藩の管理によって周辺の人々の信仰を集めるようになったのである。碑文は六朝風の書体で書かれた貴重なもので、宮城県の多賀城碑、群馬県の多胡碑と並んで日本3古碑の一つに数えられ、この碑が3古碑の中では最も年代が古く 昭和27年に国宝に指定され 厳重な管理がなされている。拝観は有料で一般の写真撮影は禁止されている。

講師の話ではこの碑文だけを見てもこれだけの内容の文章と書体を石碑に刻んだ技術と教養は中央の大和朝廷をも凌ぐものであり、他の発掘品を見てもこの那須地域には特殊の文化圏が存在したのは間違いないという。何故なら朝廷に収めるべきものがそこにはなく那須で出土していたり、出土品の焼にしても装飾にしても畿内出土品を超越した技術だそうである。又、古代に が採れたのは下野の国那須と陸奥の国のみであり、金を税の代りにできたのはこの2国だけであった。それがやがて遣唐使の資金となって唐に金がもたらされ、シルクローで広まり、やがて唐の文物が日本に輸入され那須にも伝播されたとみられる。

光圀の考古学への関心は那須国造奴の碑発見前後から高揚されてゆき、那須地域や地元の常陸においても幾つかの発掘を行っている。その代表的なものが湯津上村の今回の講演場所の資料館近くにある前方後円墳の上侍塚と下侍塚である。
光圀の発掘パターンは日本初ともいえるもので氏素性を調べ、記を作り、納め、修造し祠を作り、そこに別当を置くといった念の入れ方であった。こうして光圀の文化財保護活動は終生続いたのである。

今でこそ一地方の平凡な佇まいであるが、古代の那須は那珂川を中心に発展し、各街道もここから四方に延びている。全ての道はローマに通じるではないが日本古代の『東日本の全ての道は那須に通じる』といってよく、中央政府に組しない帰化人を中心にした大きな文化圏でがあったらしい。

国宝那須国造奴の碑が安置されている笠石神社


光圀と則天文字
唐の文学や歴史に詳しかった光圀は那須国造奴の碑文に則天文字が使われているのを見て、この碑がとてつもなく歴史上の価値があるとみて手厚い保護をしたのである。光圀は若い頃から則天文字に明るく、光國から光圀に替えたのはこの石碑発見の遥か前であったが石碑に圀もあるのを見て、この石碑の文化遺産的価値にいっそう惹かれたに相違ない。
               17の則天文字



参考資料
スライドや講義中の室内撮影などで画像はあまり良くありません

関東とその以北の全ての道は那須に通じている

下野国那須を中心とした古代文化圏
講義中のスライド画面の撮影で、不鮮明はご容赦ください


講義風景と資料館展示室
講義会場にて



展示室の様子。那須国造奴の碑のレプリカや佐々宗淳の様々な文献などもある


記事が長くなりましたので講義風景の動画は下のブログに載せました。


気ままに行こうか


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2011/07/18   地域・歴史     180TB 0   180Com 14  

沼ッ原湿原植物観察会


毎年この時期に行われる市の環境衛生課主催の沼ッ原湿原の勉強会ですが
固苦しいものではなく、ボランティアの講師と共に参加者が和やかに湿原を巡り
散策がてら花や草木についての基礎を学び環境保全の大切さを知ることでした。
30人の参加者を三班に分け、各々に講師と市の職員が一人付くといった体制で
僕と家内は3班でした。梅雨明け少し前でしたが天候に恵まれ、普段は入れない
電源開発(株)の調整池の畔も歩くことができ、有意義な2時間余りを過ごしました


沼ッ原湿原へのアクセスと周辺の地図 (最近の記事名入り)



昭和天皇がこよなく愛された沼っ原湿原
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BGM は左側の再生ボタンを押してください。曲は何故か 「忘れな草」 (音が出るまで約5秒)
この優しさ溢れる曲を拡大画像のカフェオーレでも召し上がりながらお聴きください。
上のアニメはgooブログ時代に作ったもので、FC2では容量の関係でこのサイズの10枚は作れません



下の小画像をクリックしてください
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電源開発沼ッ原発電所全体画像




今回は特別に電源開発側の取り計らいで普段は一般の人は立ち入ることができない
調整池の周囲の散策が許されました。滅多に人が入らないので池の畔の草むらに茂る
野草や木々の豊さには驚かされました。ここでは覚書に残された一部の野草を載せました

下の画像上を連続クリックしてください (10枚)
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電源開発株式会社はどんな会社かと言えばひと言で電力の卸業を行っている会社で、
主に東京電力へ発電した電力を売却していますが事業内容はもっと広範囲で、国内に
留まらず世界のダム建設をも指導しています。勿論、東電以外の国内の各電力会社に
も発電した電力を提供しています。 今回の福島第2原発の事故で水力発電が見直され
電源開発(株)は将来性豊かな企業として更に発展してゆくのは間違いないでしょう。


調整池の広々とした景色をパノラマ風に動画に撮りました。曇りがちで
角度によっては映像が暗くなった部分もあります。





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2011/07/12   イベント     179TB 0   179Com 12  

里山を彩る花園・・・黒羽ゆり園



黒羽ゆり園は黒羽町が太田原市に編入される前から町興しとしてゆり園を経営・管理してきました。
近くの八溝山麓には芭蕉ゆかりの名刹雲厳寺があり、緑豊かな里山の風景が広がっています。
毎年この時期に訪れ百合を観賞がてら何株かの百合を買ってきます。昨年の百合は鉢から庭に
移植した2種類が立派に生育し綺麗に開花しました。記事の最後のほうに併せて載せました。


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マクロ写真のみを載せました。それぞれが似ているので花名の案内がないと
種類の判別は難しい。下のサムネイルをクリックしてください。durationをスローにしました
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昨年購入してきたユリは花が終わってから球根を庭に移植したのですが
それが今年になって立派な花を付けました。ここではその花3画像と
今年新たに購入してきた2種のユリを載せました


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上のサムネイルクリックで別窓に拡大画像が出ます。
窓はプラウザの×で閉じてください



黒羽 と芭蕉、 そして ゆり園近くの雲巌寺
雲巌寺は 芭蕉が江戸で庵を構えていた時代に、この寺の修行僧であった
仏頂禅師は芭蕉の俳諧の弟子であった。一方芭蕉のほうは仏頂禅師から
禅の教えを受けたという間柄で、 奥の細道紀行の際、 芭蕉の弟子である
黒羽藩の城代家老浄法寺定勝邸に長逗留して仏頂禅師 ゆかりの雲巌寺
を訪れたのですが、その時には仏頂禅師はすでに他界していたのでした。





雲巌寺で芭蕉は下のような句を遺しています。
その時すでに仏頂禅師は亡く、碑には2人の歌句が刻まれています








白百合の唄
今から半世紀も前の美空ひばりの78回転SP盤で「白百合の唄」
珍しい曲なので YouTubeの共有作品から載せてみました
78回転のSP盤レコードの雑音が懐かいです。
今の若い人たちの大半には全く興味のない世界ではあります・・・
音が出るまでに7~8秒ほどかかりますのでお待ちください。
再生中右端の拡大マークをクリックすると当時のSP盤が出ます


                    (美空ひばり13歳の時の録音です)


少し内容の違う黒羽ゆり園の
デジブックは ↓ にあります
気ままに行こうか




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2011/07/06       178TB 0   178Com 12  

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