那須野の風に乗って

2011年01月の記事一覧

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冬のピラミッド温泉・・・栃木県でも五指に入る変った温泉?




浴室にはピラミッドパワーガ得られる?気柱がある不思議な温泉
当温泉の社長さんとは何度か通ううちに親しくなり色々お話も伺うようになりました。非常に器用な方で
科学者であり、実業家でもあります。当温泉のピラミッドも内外共にご自身で設計されたそうです。又、
作家でもありペンネームは「ひび・こうじ」といいSFから歴史物まで著しています。代表作にはSF小説
「最後の文明人記録」、黒羽城主暗殺を描いた「那須の凶弾」、「那須与一」前・後編などがあります。
ある時、温泉の玄関を入るとテレビ東京の取材班が居て、インタビューを受けました。内容は栃木県で
も5指に入る風変わりな温泉のどこが良くて来るのか、ちょっと不気味ではありませんか?」というもの
で後日温泉特集で放映するとのことでした。 よそから見ると個性的過ぎるのかよほど珍しい風変わり
な温泉として受け止められているようでした。私は全くそうは感じてはいないのでその旨を伝え、他の温
泉に比べてお客さんのマナーが良いこと、 よく温まること、料金も手ごろなことなどを答えておきました。

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                         BGMはH.Akiyama様オリジナル『悠久の旅へ』



下の画像上を連続クリックして下さい。ソースは北斗様からお借りしました。10枚

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数多い周辺の温泉でも見られない浴室設備
① 針打たせ湯(細いシャワー状の湯が強烈な速さで皮膚を刺激。立ったままで行う。腰痛や肩痛に効果的)
 ② 足湯式ミスとサウナ(足湯とミストサウナをミックスしたもの。 強力ジェット噴射装置もあり腰によく効きそう)



ひび・ こうじ氏の作品<(私の蔵書の中から)





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2011/01/25   地域・歴史    

寺子と芦野の一里塚・・・旧奥州街道を行く



いつも無関心のまま車で通っていた芦野温泉への道が、鍋掛からは昔の奥州街道の一部であるのを知った
のは那須野が原博物館が催した 『 江戸時代の古地図を持って鍋掛・越堀宿を歩く 』に参加してからでした。
その後、何度も通りながら今までとは違った視点で芦野までの街道を見るようになりました。
今回は別に新しい発見があったわけではないのですが越堀の先の富士見峠を越え寺子の一里塚から 余笹
川を通り黒川の橋の先の急カーブを通過した処にある 芦野の一里塚(夫婦石の一里塚)とその先の芦野集
落の一部と田圃道の中を走る奥州街道までを辿って記事にしました。目新しい記事ではありませんので自分
の後々のために備忘録のつもりで記録と編集をしました。FC2は字数制限が厳しくないのがいいですね。


      


                   富士見峠頂上付近の奥州街道で
                        画像上クリックで3枚です
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江戸から明治にかけての富士見峠には茶屋が2軒、土産物屋まであったそうですが今の街道沿いの左右
の山林は持ち主の管理もなく荒れ放題の状態になっています。峠からの眺望は雄大です






                        寺子の一里塚

    

一里塚の起源は平安時代で奥州藤原氏が白河の関から陸奥湾までの道に里程標を立てたことからで、そ
の後室町時代の『一休』などを経て全国的に整備されたのは徳川家康が江戸幕府を開いてからで、大久保
長安の指揮の元に日本橋を基点とした主要道路の1里(4km)毎に塚と標識を設置した。塚の傍らや上部に
は榎などの木を植えて旅人が休息をしたり、道程の目安となるように計らった。
その距離計測はかなり正確で今日の最新地図の距離表示と大差がなく、当時の計測技術の優秀性が実証
されている。現在では道路工事などによって僅かに移設されたものや、そのままの位置にあるもの、消失し
たもの等と様々な形で遺されているが貴重な文化遺産として保存している自治体が多い。



              画像上クリックで寺子の一里塚と周辺写真(3枚)
                    この一里塚は日本橋から42番目です
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                       余笹川の橋を渡る
寺子の一里塚から芦野に向かって500mほど行くと余笹川に架かる橋に出ます。 現在の橋は平成10年8月の那須地方
を襲った大雨のため大洪水となって流された橋に替えて 新しく造られたものです。 その洪水は物凄く従来の川幅の数十
倍の濁流に覆われ死者も出た他、流域の牧場や農地は殆んどが流されてしまいました。 その後復旧が進み現在では
堅固な堤防と元の川幅の数倍にも拡張された万全の対策が施されて災害防止に備えています。



                     画像上クリックで3枚です

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                    芦野の一里塚まであとわずか



                  芦野の一里塚とその周辺




                 マウスオンで黒川の橋と橋上流の眺め
          この黒川も平成10年の大洪水後の修復で川幅は数倍になりました
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奥州街道はこの橋を過ぎて左へ大きくカーブし芦野の集落へと入り、 約 800m付近に芦野の一里塚がありま
す。この辺の街道は起伏に富んだ山の斜面で昔は多分寂しい場所だったと思われますが左に芦野温泉への
道が見える頃から芦野宿らしい佇まいを見せてきます。芦野宿は最盛期には商店や旅籠なども多く遊女置屋
まであったそうです。 この先は北へ進路をとって芦野氏の居館跡を左に見て白河へと続いて行きます。 芦野
は関東最北の宿場として歴史も古く簡単な記事にするには不向きで、後日改めて詳しく探訪しようと思います。


                  芦野の一里塚(夫婦石の一里塚)
            この一里塚は日本橋から43番目です (自動スライド2枚)


                             「夫婦石」の名前の由来について
今の一里塚のすぐ近くに水田がありますがそこに小さな夫婦石神社があります。その起こりは今から数百年前、敵に追わ
れた一組の男女が大きな石の割れ目に入って身を隠していたところ、 どこからともなく現われた白蛇2匹がその石を動か
して追っ手を追い払ってくれたそうです。 その後、 この石が夜になると互いに寄り添うように近ずくという話が伝えられて
「夫婦石」と呼ばれるようになり、神社として祭られたという。一里塚の名称はこの伝説からきています。




        画像上クリックで3枚です ( 以上ここまでのソースはSakura先生からお借りしました )

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2011/01/19   地域・歴史    

今年もやって来た白鳥たち・・・大田原羽田沼


白鳥たちとの再会
一年ぶりにやって来た羽田沼(はんだぬま)でした。今年は昨年より飛来数が多いようで1月11日現在で
100羽前後ということでした。今年こそは飛翔中の白鳥をバッチリ撮ってやろうと張り切っていたのですが
2回ほど訪れたチャンスを見事に失敗してしまいました。その後は風が収まって飛び立ちませんでした。
朝早くから粘って成功した方の画像を見せていただくと、頭上を飛ぶ白鳥が鮮明に撮られていました。
ついでに カメラやレンズを確認すると CANON製で レンズはカメラの2倍以上もする値段で 300ミリ
の手振れ補正付き望遠に2×テレコンを装着したもの。全部で50万円以上にもなるという。このような
装備でないと飛翔中の白鳥は鮮明画像には撮れないらしい。 あきれ返るやら情けないやらで私は
沼のほとりを散策しながら所持している望遠レンズ内での撮影に専念しましたが寒いのなんの・・・



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               BGM : サンサーンスの『白鳥』 (ボサノバ風)


下の画像を連続クリックして下さい。ソースは北斗様からアレンジしてお借りしました (20枚)

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白鳥には優雅な姿の反面、北国から長い旅を超えて来た
逞しい野生の表情があります。自動スライド3枚

(この3画像はアニメにするため jpeg→gif に変換したため画像が劣化しています)





夕方の羽田沼を優雅に泳ぐコハクチョウを動画にしました。
短く50秒位にまとめました (YouTube)




それにしてもYouTubeのコマギレ再生には困ります。原因はサーバーの混雑状況、
アップしたPCや再生したPCのメモリ容量、動画の設定による重さなどが影響します
しかし、「もう一回見る」では全くコマギレにならないのが不思議です。分かりません



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2011/01/14   地域・歴史    

源有綱の最期 (200字ショートショート 34)



塩原温泉に昔から伝承されている物語をショートショートにしてみました
身を隠した村での温かい米の差し入れがあだとなって命を落とした皮肉な話
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この伝承は史跡鍾乳洞「源三窟」として塩原温泉の観光スポットです
( 読み方は「げんざんくつ」です )

この伝承について疑問点を2,3取り上げてみました
先ず米についてですが米の研ぎ汁が白く濁るほどの精白米を食べるようになったのは
一般に江戸時代の明暦年間 (1655~1658年) 頃からだと言われています。しかし、平
安時代でも貴族の間では白米に近いものが食べられていたとの説もあります。それは
あくまでも 貴族であって庶民は玄米をそのまま焼いたり、 蒸したりして食べていたそう
す。源有綱は義経に就いて歴戦しましたが年齢も義経とほぼ同じで、 保元・平治の乱
で戦功があり平清盛に一時は信頼された源三位頼政を祖父に持つ良血ですから贅沢
な白米を食していたかもしれません。 しかし逃亡先の山里塩原に白米が存在したかと
いえば疑問で塩原要害の城主塩原八郎家忠からの差し入れがあったとしても 一山奥
の要害に精米技術が伝わっていたとは考え難く この米の研ぎ汁に関する伝承は後世
の創作とみるのが妥当ではないかと思います。史跡といっても伝説に近い話です。

また、かなり信頼性のおける史書である『吾妻鏡』等の記録では有綱は今の関西地方
が活動の場であったらしく、頼朝に追われた義経と別れた有綱は郎党と共に大和国宇
陀郡に潜伏したが、文治2年(1186年)6月16日、義経の残党を捜索していた北条時定
の手勢に発見され、合戦の末に敗北し深山に入って自害したと記されていて、塩原に
潜伏したことにはなっていません。どちらが真実を伝えているのでしょうか・・・

もうひとつの疑問は洞窟を発見され頼朝の手の者(北条方)の襲撃にあったのですが
戦いに敗れ自害したことになっています。どういうわけかこの種の伝承は最期に自害
が多いのですが義経は別として有綱の場合狭い洞内で不意撃ちを食らったのですか
ら 『自害』 する暇はなかった筈です。 たとえ洞外に出て戦っても、家来が何人いたか
不明ですが自害には少々の時間を要するのが普通で、 激しい突発的戦闘の中では
無理と見て私は自害ではなく討ち死にとしました。


尚、 源三窟という名前の由来は、 有綱の祖父源三位頼政(げんさんみよりまさ)の一
族が都を逃がれ塩原に辿り着いた時に立ち寄ったのがこの鍾乳洞で、当初は源三位
穴と呼ばれましたがいつ頃からか今の『源三窟』の名前に替わったようです。




源三窟の名の由来である源三位頼政は相関図の中ほどに見えます。
三位というのは朝廷から賜った官位であり頼政は上から4番目に
高い従三位で中納言という身分ですが末路は哀れでした





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2011/01/09   Novels    

フラワーマーケットの花々



新年のご挨拶を日替わりのBGMで3日間別々にアップしたので、今年4度目の記事になりました。
初詣の帰途回り道をしてローズハット内のフラワーマーケットに立ち寄り初春の蘭を買い求めました。
ついでにマーケット内の花々をカメラに収め昨年の蘭の絵画3点と共に記事にしました


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                  曲は導き草・・・いつも見守ってくれる人たちへ心をこめて



下の画像を連続クリックして下さい。ソースは北斗様からです。10枚

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2日の記事の再掲載
洗足学園音楽大学制作「伝統音楽デジタルライブラリー」より

「千鳥の曲」前唄入り  後半の手事部(器楽曲)の素晴らしい演奏をお聴き下さい




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2011/01/05      

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