那須野の風に乗って

2010年07月の記事一覧

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牛ヶ城の戦い・・・伊達政宗軍苦戦の2ヶ月



                  度々汲みに来ていた清水の近くに思いがけない史跡があった
福島県天栄村に丸山の不動清水という湧き水を汲める処があり、 白河から294号線を会津若松に向かって15キロばかりを走って度々
汲みに出かけていました。ある日、 ふと気付くと近くの山の斜面に階段が整備され、なにやら案内板らしいものがありましたので覗いて
見ると牛ヶ城址の案内でした。 面白そうな歴史の断片が記されているので階段を登るとそこは山城の登城口で頂上に向かって続いて
いました。かなりの郭と段差が連続し頂上に着くと汗びっしょりになってしまいました。 詳細は後述しますがこの山城は秀吉が小田原城
を包囲していた時代にこの天栄村の城を落とし、福島の中通を全て統一しようとしていた伊達政宗軍と城兵とが死闘を繰り広げた場所
なのでした。 頂上からは伊達軍が立て籠もった羽黒山や関場山が見渡せました。尚、牛ヶ城の正式名は大里城といって当時この地方
を支配していた二階堂氏の一族である箭田野氏が領主の山城でした。 清水を汲みに来て何年も気付かずに通り過ぎていた処にこの
ような史跡があったのですから意外性と共に歴史の面白さを改めて見出したように思います。


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<下の小画像を連続クリックして下さい。ソースは北斗様からです


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牛が城攻防の様子                

小田原到着が遅れた政宗は秀吉の怒りをかい切腹は免れたが、会津地方などの占領地は召し上げられた。 牛ヶ城の攻防は梅雨時の6、 7月だったが政宗が小田原に行ってい間も伊達軍は近くの山に陣を張っていた。 8月になって小田原征伐が成功したので秀吉は天下統一に向けての東北地方の大名の処分を決めた「奥州仕置」のため黒川(今の会津若松)に向かうことになり、 道筋に当る大里での戦いを完全に終わらせよとの命令を下し、これをもって2ヶ月にわたって繰り広げられた牛ヶ城の攻防戦は終焉したのでした。約500対10,000の不利な篭城戦を乗り切った牛ヶ城は今でも地元の誇りとして語り継がれている。
※ 以上の様子などは伊達家史料「政宗記」等から解明されたものです


                                          


牛ヶ城近くの丸山の不動清水

 



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2010/07/27   地域・歴史     108TB 0   108Com 4  

大岩魚の棲む堰堤・・・山形飯豊玉川への釣り旅



姿も見せず長竿を2本も折った凄い奴が棲息していた
毎年1,2度は訪れる飯豊玉川です。今年は天候が不順なので晴れ間を縫ってやってきましたが
天気がいいと今度は猛烈な暑さです。上流へ行くのに近道をしようと、橋の袂の高い梯子に飛びつき
無理な姿勢で乗り越えたので、腰を痛めてしまい梅花皮荘の温泉に入っても直らず、今もって痛みます
その上、翌日早朝の釣では姿も見せぬ大物に本流竿を2本も折られさんざんな目に合った飯豊玉川でした


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下の画像を連続クりックして下さい。


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堰堤での様子です
飯豊玉川は飯豊山の高峰から流れ出る険峻な渓流の幾つかを併せた流れで、6月いっぱいは雪解け水が
絶えません。 不用意に中洲に入ると午後の気温上昇で水量が増し中州から戻れなくなる恐れがあります。
この日は猛烈な暑さで 釣りどころではなかったのですが この堰堤の落ち込みで29cmの岩魚が釣れたので
味を占めて翌朝早く再度訪れて竿を出すと、 真ん中あたりを少々補修してあった竿は ガツンと来た瞬間に
折れてしまうと深い溜まりに落ちてしまい、 危なくて回収不能。車に戻り予備の竿を持ってきてもう一度竿を
出すと、 滅多にないことですが再び鈎掛かりしたのには驚き。 ところが今度は大物過ぎて姿も見ることもで
きないまま継竿が途中から抜けてしまいました。最初に折れた竿は昨日29cmを釣った竿だったし、2番目の
竿は過去に尺物も上げたことのある竿なのだから、この岩魚が如何に大物であるかが伺い知れる。長竿が
無くなってしまい残念ながら堰堤での釣りはできず、沢に移動して25cmを1尾釣ってから帰途につきました。





大堰堤付近上下流の拡大地図


堰堤の溜まりにはなぜ魚が多く又、大物も棲息するのか
これはあくまでも餌釣り師として私の経験からで餌釣りなら餌の種類、 ルアーやフライ等の釣法によっても
違いがあります。堰堤でも様々で落ち込みが弱く下がコンクリートのままで浅い所には魚が居付きません。
魚が多く大物も棲息する条件はその逆で 激しい落ち込みがあり、 大水の際に上流から落ちた石がかなり
残留し深い淵を形作っていることです。 これは大滝でも同じですが滝の場合は滝にもよりますが釣る場所
が左右、前面と三方向ですが、堰堤では左右のどちらかに限られます。前面からポイントに接近できるよう
な堰堤は浅い所が多く魚はあまり居付きません。 堰堤は釣る位置が堤の上なので高く、長竿で道糸も長く
細いハリスほど鈎掛りが良いので魚が掛かっても引き上げなくてはならず、 魚が大きいと糸が切れる場合
があり、そうした経験をした魚は用心深くなって滅多に釣れなくなり永く生息します。 それが大物化して行く
わけです。 こうした繰り返しが大物を育む原因なのです。 これも釣り人過多の環境には適合されません。



                           


高価な本流竿が2本も無くなってしまい、又、買わなければならないので憂鬱です




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2010/07/21       107TB 0   107Com 4  

龍馬を襲った刺客たち ( 200字ショートショート 33 )



NHKの大河ドラマの影響もあり龍馬の人気はうなぎのぼりです。
ここでは幕末の動乱と混迷の中で散った龍馬について考えてみました。

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自動的に低い音量で音楽が流れますが本文クリックで停止します                                 


寺田屋事件後、龍馬の隠れ家だった近江屋跡の現在の地図と
幕末洛中の古地図 (双方の地図の方角は一定していません)



龍馬を殺すことにどんな意義があったのだろうか・・・
龍馬は寺田屋で幕府側に襲われたがお龍の機転で命拾いをした。 その時身を護ったのが
高杉晋作からの上海土産である S&W 社製の 6連発拳銃である。しかし事件時逃走中に
紛失してしまい、 その後薩摩藩から贈られた上記社製の22口径という 殺傷力では以前所
持していた拳銃に比べはるかに劣るものであったが、龍馬は常時これを懐にしていたようで
ある。近江屋に隠れ家を移してからも同じで、 刺客に襲われた時は拳銃を取り出す間もなく
凶刃に倒れている。龍馬は千葉道場でも有数の北辰一刀流の使い手として知られているが
永い政治活動で動き回っていては 剣の修行もままならず、当然剣術の自信もなかったので
はないかと思う。それに加え 寺田屋事件で身を護ってくれた拳銃への依存性が高かったの
は間違いない。 刺客の中心人物はそうした事情を全て知り抜いていて、周到な計画の下で
近江屋に踏み込んだのであろう。 現に近江屋の龍馬の部屋の天井が低いことも熟知 して
いて襲撃には短めの刀を使用していたのが分かっている。 原田左之助の刀の鞘が現場に
残されていたこと等から 新撰組実行説が一時有力だったが、新撰組だったら何も襲撃を隠
す必要もないわけで、3年前になるが池田屋襲撃は堂々と行っている。 これから見ても 暗
殺の黒幕は龍馬殺害を知られることで、自分の立場が不利になる人物だということになる。
龍馬は自分が命を狙われているのを良く知っていて、 変装や偽名などで用心していた一方
では大胆な面もあり、この近江屋にしても新撰組屯所や京都見廻り組詰所とはあまり離れて
はいなかったので土佐藩や薩摩藩からは隠匿の誘いが来ていたのであるが辞退していた。

それにしてもこの時代は何と暗殺事件が多いことだろう。桜田門外での井伊直弼、土佐での岡田以蔵や
吉田東洋、新撰組がらみの芹沢鴨、池田屋での勤皇志士、 近江屋の龍馬と中岡、伊藤甲子太郎などは
代表的で我が地元の黒羽藩主15代大関増裕も領内で狩猟中に鉄砲で暗殺された疑いが濃い。このよう
な一般的に知られていない暗殺事件を含めれば当時全国で40件を超すものと思われる。 新しい時代へ
の過渡期で警察組織も官軍、幕府と混沌としていたとはいえ、あまりにも数多い暴力による決着である。

ひとつの仮説であるがもし、坂本龍馬が暗殺されずに明治維新を迎えていたとすれば、 果たして龍馬は
明治新政府でどのような立場にあっただろうか。気ままな自由人であり常に前向きな彼がおとなしく政府
の要人となって行動したとは思えず、極端に言えば新政府の厄介者扱いになり、日本を飛び出し世界に
新天地を求め延び延びと活動していたのではなかろうか。こんな想像を巡らすのも又楽しいものである。





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2010/07/16   Novels     106TB 0   106Com 4  

黒羽城址と紫陽花

                戦国時代から幕末へ・・・小藩は城と共に生き残った
黒羽藩の起こりは 室町時代の大関家から語らなければならない。 この時代の大関家は那須氏の有力な家臣であった。
大関増清によって築城された余瀬の白旗城は室町から戦国時代にかけての大関氏の活動の拠点である。
その後、 領地拡大に伴い天正4年(1576)大関高増が白旗城から1万八千石で現在の地に大関城(黒羽城の旧称)を築
いた。 那珂川と松葉川に囲まれ切り立った崖もある自然の要害で本丸周囲に造営された深い空堀があり、 現在でもそ
の跡は明らかに確認できる。先頃の訪問では紫陽花の咲き乱れるかなり立派な空掘を見ることができた。
  戦国の世にあっては家康の東軍にに属し関が原にも出兵し、上杉景勝討伐の際には黒羽城は重要な防衛拠点として
脚光を浴び城の各所が充実された。幻となった白河決戦の後、結局は家康軍が関が原でも勝を収め、当時の城主資増
を擁した黒羽は藩として成立した。褒賞として江戸幕府より2千石が加増され2万石となり更に陣屋としての資格を与えら
れ宇都宮藩や大田原藩よりも小録でありながら重要視された。
  幕末には初め当時の城主大関増裕は優れた軍略家として認められ勝海舟などと共に活躍、 自らは陸海軍奉行に任
ぜられ江戸幕府の重臣の一人であったが、 黒羽領内で不審な急死を遂げた。 すると、その後の黒羽藩は官軍側に組し
倒幕に傾いたのである。 この変身振りは いかにも小藩の処世術とも言うべきで、 戊辰戦争後新政府になり廃藩置県で
黒羽藩が廃止されるまで黒羽城と共に生きのびたのである。しかし明治政府により不要となった城は各地で解体された。

  松尾芭蕉が曽良を伴い奥の細道紀行の途中黒羽を訪れたのは元禄2年で、 当時の黒羽藩主は大関増恒で芭蕉が
14日間も逗留した浄法寺家はその当主高勝 (通称図書) が黒羽藩の城代家老であり芭蕉の俳諧の弟子だったからで、
当時の黒羽周辺には芭蕉の弟子たちによって俳諧が広まっており、 芭蕉の知名度は相当高かったようで盛大な歓迎を
受けたらしい。ここを起点にして 芭蕉の江戸在住時の弟子であった仏頂禅師が雲巌寺で修行した山庵跡を地元の俳人
の案内で見に行ったりしている。雲巌寺で詠んだ句も遺されている。黒羽を訪れると何処へ行っても芭蕉一色である。


                      黒羽城西側周辺の江戸時代の絵地図
                  「封域郷村誌」(ほういきごうそんし)附図より 黒羽城位置図


     これ以外に横が2mもある黒羽城関連の絵図2舗が最近発見されているがサイズが大き過ぎて縮小掲載しても内容が判別できない。


        
          本丸跡は広場で中丸跡に文化伝承館がある。二の丸跡は山村開発センターと駐車場になっている。三の丸跡には
          芭蕉の足跡を伝える芭蕉の館があり、奥の細道紀行時の芭蕉と曽良の旅姿を描いたブロンズ像などがある。
          大雄寺は大関家の菩提寺である。 八幡館は大関増清の代の那須氏の重臣の館だったが大関氏の黒羽進出で移
          転したため、建物は黒羽城の一角に属することになった。


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             曲は 「遠い想い出」                       





          黒羽城址に紫陽花が咲く頃 (下の小画像クリックです。ブログの小技より)
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2010/07/10   地域・歴史     105TB 0   105Com 4  

黒羽ユリ園・・・のどかな里山の初夏を彩る



黒羽町が大田原市と合併する前からのユリ園で近くには古刹の雲巌寺があり
静かな里山の一角にあります。地元須佐木の有志によって管理されてきました。
約 20アールの園内には 45 種約1万5000本のユリが植栽され、 県内や近県からも
お馴染みさんが訪れユリの鑑賞や好みのユリの購入に熱心でした。営利事業ではなく
目的は村おこしのためで、収益の一部は市の福祉協会に寄付している。値も安く、係員の
応対も良いので 私も 4 株ばかり買い求めて、 帰宅後は鉢と地面とに分けて植え替えました


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               ドビッシー 「亜麻色の髪の乙女」


下の画像を連続クリックして下さい。花色に近いグラデーション背景と
画像が同時に切り替わります。北斗様のソースお借りしました。10 枚です



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購入したユリです (2本で500円)


シャンパニュー ダイヤモンド




オレンジタイクーン (奥に見える蕾のユリは昨年買ったエルディボ)


立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花 
とは有名な喩えですが古来からユリは美人を象徴する花のひとつです





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2010/07/02       104TB 0   104Com 4  

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