那須野の風に乗って

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もう一人のエリザベート・・・青木別邸とひまわり畑



日本橋三越本店ではオーストリア最後の皇妃エリザベート展が8月20日まで開かれていた

エリザベート展案内

上図は案内パンフレットと違う画像を連結したものだが噂に違わずその美貌は相当なものである。
絢爛たる半生も悲劇に終わったようだが、そんな劇的さはないが那須青木別邸の歴史の中に同じ
エリザベートの名前が刻まれている。青木周蔵の妻でドイツ貴族の令嬢だったエリザベートである。


ひまわりと別邸
ひまわり畑から青木別邸を見る。上の写真は熟年頃のエリザベート


青木周蔵とエリザベートとの出逢い から結婚まで
青木周蔵は幼名を三浦團七といい22歳の時御典医の青木研蔵の養子となり後に名前も周蔵と改めた。
この養子縁組は本家弟の娘との結婚が条件だったので この時点で青木周蔵は結婚しているのである。
典医の家柄から彼は士族の身分となり、医家の習わしで医学関係でドイツに留学する。しかし、周蔵には
医学よりも政治・経済への関心と素質があり、その分野での力を蓄え帰国したのである。

帰国後外務省に入ると一等書記官を経て、その類い稀なドイツ通を買われ、駐ドイツ公使に抜擢された。
妻を伴ってドイツに駐在するつもりが 妻は頑なに反対したので周蔵は一人ドイツへと向かう他なかった。
ドイツでの活躍は目覚ましく、やがてドイツ貴族の令嬢エリザベートと知り合うのである。 彼女の美しさに
すっかり夢中になった周蔵は妻の存在も忘れ恋に堕ちる。エリザベートも周蔵を愛していたので結婚を考
えるまでに進展したが妻との離婚が先と日本の友人を通して手続きを依頼し、完了との報せがあったので
二人は晴れて結ばれたのである。しかし、それにはとんでもない行き違いが生じていた。


帰国後の離婚処理と明治新政府での活躍そして那須青木農場
日本からの召喚命令で美しい妻を伴って意気揚々と帰国した周蔵は目を疑った。 出迎えの中に離婚が
成立している筈の妻が居るではないか。実は周蔵本人でないと解決できない感情的な問題があり完全に
離婚は成立していなかったのである。その後の周蔵は彼ならではの実行力で強引に離婚にこぎ付けたが
それというのも 山縣内閣では外務大臣にまで上り詰め対英条約改正交渉などを指揮したりと飛ぶ鳥をも
落とす勢いは誰の介入をも許さなかった。しかし、可哀想な元妻には最後まで手厚い保護を行っている。

明治政府の重鎮にまで出世し、彼の出身地長州藩や薩摩藩出の元勲達と共に那須野開発に乗り出す。
明治14年には有利な条件で資金を借り受け広大な土地を那須に取得すると政治の傍ら農場経営に乗り
出すのである。明治21年には当時ドイツ建築の第一人者松ヶ崎萬長設計になるモダンな別邸も建築され
その後増築などによって現在に残る青木別邸が完成した。 以後当時の官僚たちが多く住んでいたという
東京麹町上二番町( 現在の千代田区一番町 )から東北本線に乗り黒磯で降りると 周蔵は駅前厩舎から
別邸まで美しい妻エリザベートと一人娘のハナを乗せて、自らが駆る豪華な幌付き一頭立て馬車で、農場
近くからの杉並木を楽しげにやって来る姿を地元の人々が何度も見たという。 当時としては贅沢な話だ



エリザベート熟年時の写真
妻エリザベート
写真は古いですが美しさはいかが?


娘ハナ 青木周蔵
娘ハナ                        青木周蔵
                             若い頃の写真が見つからないが美男子?だったのか



青木別邸内にて
過去何度も記事にしているので今回はいつもと違う画像を載せてみました。
5番目のハナの写真はエリザベートの若かりし頃を想像するに充分な美しさです。
ドイツの伯爵家に嫁いだ娘ハナは社交界で華やかな人生を送ったのでしょうか?
なお、青木別邸は平成11年に国の重要文化財に指定されています





別邸の裏手には広大な明治の森があり、建物周囲にも草木が豊富です。明治24年の
別邸建築当初からあったあすなろの古木は現在建物との位置関係は違いますが見事な
枝ぶりで有名です。周蔵が幌付き馬車を駆った杉並木と一緒に載せました。


あすなろの巨木



画像クリックで BGM
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今年は特に開花が遅かったが見事に咲き揃いました。蒔種の当事者に問い合わせましたが
はっきりした本数は不明だが約15,000本という事でした。もっと多いようにも感じましたが
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トケイソウ
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ひまわり畑の隣に毎年咲く花です。画像マウスオン・アウトで2枚
アメリカフヨウ

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同じくマウスオン・アウトです。
カシワバアジサイ





ひまわり畑には昨年まであった展望櫓の設置がないため
全体が見渡せないので歩きながら大体の姿をHD動画にしました。
右下のボタンクリックで拡大しますと迫力がありあす。雑音は風の音です





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2012/08/21   地域・歴史     273TB 0   273Com 14  

芭蕉と雲巌寺


表題

前回記事にした黒羽ユリ園から 北へ2キロ程の処にあるのが 臨済宗の古刹雲巌寺です。
雲巌寺は大治年間(1126年~1131年)に叟元和尚によって開基され、 1283年(弘安6年)に
時の執権・北条時宗を大檀那(家)とし、高梨勝願法印の寄進で仏国国師により開山された
と言われています。以上のように平安時代から続く歴史の古い禅寺です

  その後 1578年(天正6年)に無住妙徳禅師が住職となった折に 宗派を臨済宗妙心寺派としま
した。建物は1590年(天正18年)の豊臣秀吉の小田原征伐の戦火で焼失しましたが数年後に
再建され、又、その後1847年(弘化4年)に火災に今度は火災に遭ったが1849年(嘉永2年)に
再建されています。 1912年(大正元年)、築 300年以上の仏殿の改築工事が始まり、 1922年
(大正11年)に竣工しました。禅寺独特の寂びた静かなお寺で牡丹など季節の花でも有名です。
今回は少々お硬い記事になりましたが芭蕉と黒羽との繋がりを宣伝も兼ねて紹介しました


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曲は和風素材より 「竹 林」


下方の小画像にマウスオンしてください <
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表紙説明
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庭園の花の盛期は終わっていましたが僅かに咲いていました



芭蕉と黒羽藩そして雲巌寺
黒羽に行って先ず気付くのは観光スポットを初めどこもかしこも「芭蕉」一色ということです。
それというのも芭蕉が曽良を伴って奥羽行脚の旅に出た折、 その紀行記「奥の細道」の記載
によってこの黒羽に最も長く滞在したことが分かっているからで、俳聖芭蕉を前面に出すことで
観光の振興は基より文化面での市のイメージアップに力を入れているからにほかなりません。

黒羽藩城代家老浄法寺図書高勝(俳号浄法寺桃雪)との絆
芭蕉は元禄2年3月江戸深川の芭蕉庵を後にして弟子の曽良を伴ない奥州へと旅立ちました。
途中、日光東照宮の参拝などを済ませてから 黒羽に到着したのが4月3日(全て旧暦)でした。
当時の黒羽藩は前年、藩主が死亡し4歳の大関増恒が後継となったが幼い為、 代々家老職の
浄法寺家がすべてを取り仕切っていました。 長男の浄法寺桃雪は江戸の頃から芭蕉の弟子で
黒羽に戻ってからも 俳諧を地域に広める活動に熱心であった。 芭蕉はこの浄法寺桃雪の好意
に浴して 4月16日まで浄法寺家をメインに 黒羽に逗留して地元の俳人との交流を深めました。
現在では考えられないような文化がこの北関東にも花開いていたのでした。 元禄時代の江戸の
華やかな芸術の一端が黒羽にもあったのです。 俳人たちの勧めで江戸での俳諧の弟子であり
禅における師であった仏頂和尚の草庵跡を確かめに雲巌寺へ訪れる事になった由縁でした



芭蕉の辿った道
奥の細道コース


旧浄法寺邸
この建物は実際に芭蕉が逗留した建て物ではないが浄法寺家が
代々所有していたもので内部は武家屋敷の雰囲気が顕著である。
現在は大田原市が管理し一般にも公開している。 催し事の一端に
利用されたり、公園になっている敷地には芭蕉の句碑も残されている


浄法寺邸


芭蕉の句と仏頂和尚の歌碑
芭蕉と仏頂禅師の歌碑


芭蕉と仏頂禅師との出会い
元禄時代 、江戸深川に庵を結んでいた松尾芭蕉は門前に大きな芭蕉を植えていたので
芭蕉庵と呼ばれていました。  当時仏頂禅師は常陸の国 鹿島の根本寺の住職でしたが
鹿島神宮との境界争いを幕府に訴えていたが、 その間深川に臨川庵を結んで居ました。
そこが芭蕉庵に近く禅の勉強中だった芭蕉が時折臨川庵を訪れ仏頂禅師の教えを受けて
いたのでした。二人の出逢いはそこからで仏頂禅師も時には芭蕉庵を訪れ俳諧の教えを
受けていたが彼は歌のほうが得意だったようです。臨川庵での禅問答から生まれた名句が 
古池や 蛙とびこむ 水の音 です

根本寺   芭蕉庵跡
常陸の国仏頂禅師が住職だった根本寺(左)と江戸深川芭蕉庵跡。現在は芭蕉稲荷神社になっている


2012/07/23   地域・歴史     268TB 0   268Com 10  

矢板武記念館の枝垂れ桜



撮りためた桜の写真が沢山残っているのに 桜の記事が季節外れに感じるほど季節の移ろいが速くなって
きました。今回は矢板武記念館の枝垂れ桜です。妙道寺と同じ矢板市にある記念館は明治の荒れ果てた
那須野の荒野を開拓し疎水を通し、地域文化の発展に寄与した矢板武の業績を讃えて設立したもので、
当時の建物と文物等が保存されています。その頃植えられた枝垂れ桜は それ以来180年もずっと那須の
歴史を見守ってきました。かなりの古木でも毎年綺麗な花を咲かせます。市指定の天然記念物です





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色々の角度からの1本枝垂れを撮ってみました。
下の小画像にマウスオンしてください
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以下枝垂れ桜の様子です。各画像に説明はありません
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矢板武記念館の枝垂れ桜前の庭園に咲く花のいくつかをアップしてみました。
ムスカリやヤシオツツジ、 八重桜等 の名前が分かっている花がありますが
バイモユリ他ご教示で判明、他名前不詳の花もあり、全体に説明文は省きます

下の小画像にマウスオンしてください

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<説明文1>
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バイモユリ  (花ぐるまさん ご教示ありがとう)





2012/04/25   地域・歴史     249TB 0   249Com 4  

千本松牧場の新年・・・観光との両立



一番近い地元の牧場ですが、これまで記事にしたことはありませんでした。
那須野が原公園とは疎水を挟んで隣接しており、いつも見ているので存在感が
希薄だったのと、いつでも記事にできるという安心感からかもしれません。

東京の友人なども塩原のスキー場に来た時など度々立ち寄っていて、高速出口の
すぐ近くでもあり観光牧場としては良く知られています。 ホウライ(株)の経営になり
昔は明治の宰相松方正義の広大な所有地だったが、それを買い占めてゴルフ場が
二つもあり、本格的規模の牧場も充実しているという巨大なエリアが現出しています



千本松牧場周辺地図




BGM用画像
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本格的な乳・肉牛の生産牧場として
下の小画像にマウスオンしてください
昨年の放射線汚染は飼料のピンチだったが無事乗り切った



観光牧場として
下の画像をクリックしてください (12枚です)
<<>
<レストハウス内には数多くのお土産が用意されている>


牧場規模詳細




近くの温泉群



 ① 千本松温泉 ② ピラミッド温泉 ③ やしお温泉 ④ あかつきの湯 ⑤乃木温泉
 ⑥ 青木温泉 ⑦ 太陽の湯 ⑧ 長寿温泉  ⑨ 塩原大網温泉  ⑩ 那須芦野温泉



ここのところ雪が降っても積もるほど降りませんが厳しい寒さです


2012/01/06   地域・歴史     219TB 0   219Com 15  

 野仏のある風景・・・会津西街道上三依  


上三依の水生植物園駐車場から男鹿川の橋を渡り植物園方向とは逆の左手が旧会津西街道の脇道です。この道はここから北方に約2Km程残されているだけで、水生植物園が造られる前にはその先から続いていた筈です。開発が進み新道が造られたりと昔の面影が残るのは僅かな区間となりました。
水生植物園を訪れた時に何度かこの道を歩きました。道の左側は男鹿川で右側の斜面は今は杉の混生林
になっています。 橋から約1㎞の右側路傍に野仏数基があり、そのすぐ後方斜面には4基の供養塔が見え、少し歩くと六地蔵庚申供養の石憧が姿を見せます。そこから200m程の右側に上三依一里塚があります。
こうした旧道・古道に関しては非常に詳しい "がりつう" さんがおりまして、この場所にも触れています。


よろしければBGMは左側の再生マークをクリックしてください
音が出るまで4~5秒かかります








左側男鹿川対岸を走るR121号の賑やかさをよそに、殆ど人の姿は見られない。
路傍に6基の野仏がひっそりと建っている。僅かに残る刻印から建立年代を探る
と延享 ~安政年間(今から約150年~270年前)に亘る江戸時代のものであり
二十三夜供養塔、弁天供養塔、子安観音他で、 どれも旅人の安全や、罪業の救
い、安産などを願って建てられている。近寄って見ると皆、穏やかな顔をしている


野仏群を角度を替えて撮る



6基の野仏群の斜め後方に4基の供養塔が建てられています
最も古いのが弁天供養で延享年間の建立です。供養塔の向かって
右側面に不鮮明ながら建立年代が刻まれているので下に記しました。
二つの山の供養は当時の山岳信仰での登山者への供養と思われます
(  )内は建立年代です



近くの六地蔵庚申供養の石憧2基と野仏の拡大画像
2画像合成は背後の斜面を利用し緑で境を塗りつぶして別個の画像に遠近を付けました


上三依の一里塚
一里塚には説明板があります。分かり易く次に示しました。
この一里塚は、街道をはさんで左右に二基完全に残存する得がたい史跡である。
この街道は会津西街道の脇道で、 尾頭峠を越え塩原に至る最短の街道である。
天和3年(1683)の日光地震によって五十里湖が出来た時、一時的に塩原を経由
氏家阿久津河岸に至る会津廻米道として重要な役割を果たした。 今日再び観光
道路として開発の計画がすすめられている。





古めかしい記事の後には我が家に咲き揃った清楚なカサブランカの画像でお目直しを・・・





中国当局の列車事故車両隠蔽埋立の動画
気ままに行こうか



2011/08/02   地域・歴史     183TB 0   183Com 8  

水戸黄門の実像・・・歴史解説員養成講座を覗く


歴史解説員養成講座に参加するまで ・・・水戸光圀(黄門)について流し読みでもしていただければ幸いです
当ブログは本来、地域紹介ブログなので、たまには花から離れてみたりします。少しお堅い記事になるかも。
隣々の那珂川町「なす風土記の丘資料館」の企画で町の歴史文化施設を訪ねて来る人たちの歴史解説員の養成講座が春から秋にかけて週一回行われています。7月の第一週は「水戸光圀公の考古学」という面白そうなテーマだったので、那須塩原市民の僕は受講する資格がなかったのですが電話で特別に参加を取り付けました。僕自身は解説員に興味はなく講演の内容が楽しみで参加しました。

当日訪れると定年退職したと思われる年配の方たちが20名近く集まっていました。定年後のボランティア活動として歴史解説員を志しているのでした。周囲の話が耳に入ってきましたが、流石にこの地方の歴史や民俗に詳しそうでした。退職後、ぼんやり家で過ごす生活から脱却したいのでしょう。
講師は主任学芸員の眞保昌弘氏でしたがユーモアを交えた講義は飽きさせることなくスライドなどを通した解説は専門的な領域のわずかに一歩手前で留まっていました。こうした分野は究明の度合いを極めればきりがなく複雑多岐になってゆくので、解説員という専門分野を覗いた程度の内容になるのはやむを得ないでしょうし、それ以上は個人差が出てしまうので平均的な養成は無理でしょう。あとは各人の個性がいかに発揮されるかによって違ってくるでしょう。みなさん歴史の好きな方ばかりなのでどんな解説員になるか楽しみです。
講師の主任学芸員の眞保昌弘氏とはどこかでお目にかかったようなのですが、はっきり思い出せません。


講義が行われた なす風土記の丘湯津上館


水戸家の誕生と徳川御三家
徳川家康には子供が16人あり、うち男子は11人だった。本来なら長男が家督を継ぐのだが長男の信康は織田信長により自害に追いこまれ、二男秀康は秀吉の養子となったが秀吉に子が生まれると北関東の結城家に再度養子として封じられた。結果三男の秀忠が家康の後を継いで第二代将軍となった。その後四男~八男まで人材的に恵まれなかったり関ヶ原で戦死したりと生き残ったのは九男義直、十男頼宜、十一男頼房の3人で義直は尾張へ、頼宜は紀州へ、そして頼房が水戸に所領が与えられ、徳川御三家となった。尾張と紀州は格こそ違い共に武家官位は権大納言であったが水戸は権中納言で御三家では最も格下であった。後でも述べるがそれが「黄門]という名の由来にも繋がってくる。

 

水戸家と光圀(水戸黄門)
初代藩主頼房の三男として生まれる。水戸家は御三家の中でも将軍を出せない格下であり江戸常駐としての扱いであったが、その代償として参勤交代は免除されていた。色々の事情があるが当時の二代将軍家光の命で光圀は6歳の時に兄の頼重を差し置いて水戸家の嫡子に選ばれる。その後、正に江戸定府となるが少年時代の光圀はいわゆる不良で、御三家をかさに好き勝手な言動や行動をしていたらしい。しかし、頭のほうは良く学問好きで唐代の文化にはとりわけ理解が深く、18歳の時に読んだ司馬遷の「史記」の中の伯夷伝に自分と同じ境遇で家督を継いだ国が大いに乱れたという記載を見て心を打たれ自分の置かれた立場は正道を外れているとして兄に水戸家を名乗ることを譲っている。しかし、水戸家の嫡男の身分は幕府の決定であり捨てることはできなかった。

その後の光圀は人が変わったように学問にも礼節にも励むようになり、当時では難解な則天文字などにも造詣が深かった。この頃"史局"を設けて有名な「大日本史」の編纂にも取り掛かっている。そして、頼房の生存中に63歳で二代目水戸藩主となった。兄は高松藩の藩主となっている。


    
       大日本史全397巻                現在は偕楽園の中にある

黄門の名の由来と諸国漫遊の真実
水戸黄門の名は、光圀が徳川御三家の一統である水戸藩の藩主であり、武家官位として権中納言を名乗っていたことから、「徳川光圀」と直言することを避けるために、藩名である「水戸」と、唐の官位名で中納言と同じ地位の「黄門」をとって誰にも呼び易い別称を付けて広く用いらた。これは水戸家が御三家最下位官位中納言だからできた称号であった。

大正から昭和の初めごろには「水戸黄門漫遊記」が庶民の間で人気になっていて、その流れは現在のTBSのドラマにも及んでいる。メディアとしては、講談・歌舞伎・演劇・小説・映画・テレビドラマ・漫画・アニメなどと広範囲で、話の大筋は商家の隠居に身を窶した水戸黄門が助さん格さんを供に諸国を旅し、行く先々で地方の悪政を正したり、人情の機微に触れたりするもので、TBSのテレビドラマなどは時として現在のお役人に対する批判的な内容になることもあり、一概に低俗番組とも言えない面がある。



江戸常駐の水戸藩主は全国行脚はできなかった
しかし、この一連のお話は全てフィクションで、江戸常駐だった黄門は絶対に諸国を歩き回ることはできなかった。当時の水戸の所領であった那珂川と船で結ばれていた那須を中心にした一帯の巡察のみが許されていただけなのである。参勤交代は免除されていてもこれでは半ば人質みたいな感すらする。
それではなぜこうした物語が生まれたかと言えば江戸に常駐するだけで参勤交代を免除されていた黄門がいつも江戸にいることから、庶民は水戸徳川家を副将軍と愛称するようになったのであると思われる。実際に諸国を動き回ったのは光圀の補佐官ともいえる佐々宗淳なる人物で、この人が助さんのモデルで全国を歩き回って光圀へ様々な情報をもたらしていた事が「水戸紀年」の記録でも明らかになっている。格さんこと格之丞のモデルも当然あったのだがこれはガードマン的な剣術に優れた家臣がいて、そのイメージから生まれたと思われる。
他の大名と違っていつも江戸で見かける水戸光圀黄門さまは庶民に愛されていたことからこうした物語ができあがったと思われる。徳川には「副将軍」という役職はなく、庶民に人気があった水戸黄門だからこそ呼ばれるようになった名前であるが、印籠をかざして悪人をひれ伏させるといった事は全くの作り話で、実際にはあり得ない。

水戸光圀の発掘活動で那須一帯の古代文化圏の存在が明らかになった
今回の講座はここからが本番で内容も専門的に近くなり記事も長くなるので、興味深いものを抜粋して載せてみました。主に光圀の考古学への関心と発掘調査による那須文化圏の存在についてです。室内での映像や画像は講義中などで条件が悪く芳しくありません。


那須国造奴の碑と日本最古の碑文 (国宝)
碑文の要訳
永承元年(689)4月、飛鳥浄御原大宮から那須国造であった那須韋提(いで)は、評督という官職を授か
りました。そして、庚子(文武四年、西暦700年)正月二日辰のときに亡くなりました。そこで那須国造家の
意斯麻呂らが碑を立てて個人の遺徳を讃えました



今から1,400年前 那須国を治めていた那須意斯麻呂が 父親の死を悼み建碑したものでその後、江戸時代になってからはこの湯津上村(現在は大田原市に統合)は水戸藩の管轄下に入った。ある時 旅の僧によって草に埋もれていた石碑が発見された際に 馬頭村 (現在の馬頭町) の古老により貴重なものであることが解り その話が水戸光圀に伝わった事から、水戸光圀はこの碑にお堂を造り安置した。元禄4年(1691年)のことであった。石碑の上に笠状の石が載せられていたため笠石と呼ばれるようになり 後には笠石神社として発展し 水戸藩の管理によって周辺の人々の信仰を集めるようになったのである。碑文は六朝風の書体で書かれた貴重なもので、宮城県の多賀城碑、群馬県の多胡碑と並んで日本3古碑の一つに数えられ、この碑が3古碑の中では最も年代が古く 昭和27年に国宝に指定され 厳重な管理がなされている。拝観は有料で一般の写真撮影は禁止されている。

講師の話ではこの碑文だけを見てもこれだけの内容の文章と書体を石碑に刻んだ技術と教養は中央の大和朝廷をも凌ぐものであり、他の発掘品を見てもこの那須地域には特殊の文化圏が存在したのは間違いないという。何故なら朝廷に収めるべきものがそこにはなく那須で出土していたり、出土品の焼にしても装飾にしても畿内出土品を超越した技術だそうである。又、古代に が採れたのは下野の国那須と陸奥の国のみであり、金を税の代りにできたのはこの2国だけであった。それがやがて遣唐使の資金となって唐に金がもたらされ、シルクローで広まり、やがて唐の文物が日本に輸入され那須にも伝播されたとみられる。

光圀の考古学への関心は那須国造奴の碑発見前後から高揚されてゆき、那須地域や地元の常陸においても幾つかの発掘を行っている。その代表的なものが湯津上村の今回の講演場所の資料館近くにある前方後円墳の上侍塚と下侍塚である。
光圀の発掘パターンは日本初ともいえるもので氏素性を調べ、記を作り、納め、修造し祠を作り、そこに別当を置くといった念の入れ方であった。こうして光圀の文化財保護活動は終生続いたのである。

今でこそ一地方の平凡な佇まいであるが、古代の那須は那珂川を中心に発展し、各街道もここから四方に延びている。全ての道はローマに通じるではないが日本古代の『東日本の全ての道は那須に通じる』といってよく、中央政府に組しない帰化人を中心にした大きな文化圏でがあったらしい。

国宝那須国造奴の碑が安置されている笠石神社


光圀と則天文字
唐の文学や歴史に詳しかった光圀は那須国造奴の碑文に則天文字が使われているのを見て、この碑がとてつもなく歴史上の価値があるとみて手厚い保護をしたのである。光圀は若い頃から則天文字に明るく、光國から光圀に替えたのはこの石碑発見の遥か前であったが石碑に圀もあるのを見て、この石碑の文化遺産的価値にいっそう惹かれたに相違ない。
               17の則天文字



参考資料
スライドや講義中の室内撮影などで画像はあまり良くありません

関東とその以北の全ての道は那須に通じている

下野国那須を中心とした古代文化圏
講義中のスライド画面の撮影で、不鮮明はご容赦ください


講義風景と資料館展示室
講義会場にて



展示室の様子。那須国造奴の碑のレプリカや佐々宗淳の様々な文献などもある


記事が長くなりましたので講義風景の動画は下のブログに載せました。


気ままに行こうか


2011/07/18   地域・歴史     180TB 0   180Com 14  

金毛九尾の狐伝説と殺生石・・・平安京から那須へ



                 白面金毛九尾の狐伝説と殺生石
平安時代の後期、鳥羽上皇に仕える女官の中でも、とりわけ美しい玉藻の前という女性がいた。
その美貌が鳥羽上皇を虜にし寵愛を一身に集めめていた。ところが上皇の様子が日ごとに衰弱
して行くので不審に思った公卿たちは当時有力であった陰陽師 阿倍康成に占って貰ったところ
玉藻の前という女はかつて中国で周の幽王の后の褒似となり周を滅ぼし、 殷の週王のもとで妲
己となって殷を崩壊させ、花陽夫人となっては天竺の皇太子を惑わせる等、 国々を荒らし回って
きた白面金毛九尾の狐で、遣唐使吉備真備が帰国する際、人間に身を変えてついてきたもので
あるというのが分かった。 驚いた阿部康成は強力な魔除けの祈祷を行ったところ、 玉藻の前の
姿はみるみるおどろおどろしい九本の尾をもった大狐に変身し宙に飛び上がるや東の方角へと
飛び去って行った。1ヶ月もしないうちに下野国那須からおぞまししい噂が伝わってきた。
そこで朝廷は三浦介義明と上総介広常に命じて大狐を退治させることにした。弓の名手で勇猛
な二人は神のお告げにあった100日間の犬追い修業を経て力を蓄え 数百の軍勢を引き連れて
那須に隠棲していると伝えられる大狐退治に向かった。茶臼岳山麓に追い詰められた金毛九尾
の狐は二人の放った矢によって倒されたが狐はたちまち石に変身した。
その後 その石は上空を飛ぶ鳥を始め石に触ったり近づいたりした人や動物などを悉く殺戮する
恐ろしい石となって人々を苦しめていた。誰言うともなく「殺生石」(せっしょうせき) と呼ばれるよ
うになって周辺では近づく者がないほど忌み嫌われた。
朝廷は名僧の玄扇和尚に殺生石を調伏せよと命じた。玄扇和尚は精魂をこめ石 目がけて金鎚
を力いっぱい振り下ろした。すると石は三つに割れ、破片の一つは海津に、一つは備後に飛んで
行った。しかし、残りの一つは殺生石の妖気を全て失いきることはできずに、今なお異臭を放って
殺生石の名を留めて那須茶臼岳山麓の賽の河原上流に残されたままになっている。


              殺生石・賽の河原と那須活火山の全容


那須茶臼岳は活火山で現在でも噴煙を盛んにあげています。上図からも噴火の際に火砕流の辿るルートが分かります

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              賽の河原教傳地獄の千体地蔵と殺生石




撮影当日の夜には上の賽の河原を中心に御神火祭りが開催される予定でしたがあいにくの
雨模様となって屋外の火祭りは中止になり会場を那須小学校に移して、白面金毛九尾の狐
太鼓や民話・踊りなどの郷土芸能上演に変更された。
開演が19時とあって時間がたっぷりあったので小雨が時々降る中を当ブログでは初めて取
り上げる殺生石周辺の風景を撮り、屋内の祭りの様子も記事にしました。



                       殺生石周辺の風景
                    左右のサムネイルをクリックしてください
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<伝説の殺生石は中央右。昔は亜硫酸ガス濃度が濃かったらしい>


                   教傳地獄の由来の案内板から
案内文不鮮明で要約加筆した。 室町時代、不良少年だった教傳は仲間2,3人と一緒に那須
の殺生石を見物に行ったが、出掛ける時母親が作ってくれた朝食を旅支度ができていないこと
に腹を立て、お膳を蹴飛ばして出発してきた。殺生石を見た後賽の河原を歩いていると今まで
晴れ渡っていた空が俄かにかき曇り雷鳴が轟き足元からは火炎が噴き出してきた。連れの仲
間は一斉に逃げ出したが教傳は逃げ遅れた。仲間が振り返ると真っ赤な泥流に下半身を埋め
た教傳がもがき苦しんでいた。助けに戻った仲間は教傳の腰から下が焼け焦げているのを見
た。引き上げようとすると苦しい息の下から「俺は親不孝で今朝もおふくろに悪い事をした罰が
当たったんだよ~」と言ったのも束の間、押し寄せる溶岩流に呑み込まれて行った。
その後教傳が呑み込まれた地点では泥流が長い間煮えたぎっていたがある年の山津波で埋
もれてしまった。享保年間になって、そこが安定した地盤になったので地元の有志達が教傳の
哀れな最後を供養するために千体の地蔵尊を建立安置したのがこの教傳地獄である。




那須茶臼岳は活火山で過去何度も噴火をし多数の犠牲者も出ています。こうした伝承が生まれた背景には
噴火に伴う亜硫酸ガスの存在があるからです。現在でも賽の河原のあちこちにはガスが噴出しています。



会場で披露された 白面金毛九尾の狐太鼓
後半に迫力のある演奏が見られますのでスクロールなどして最後までご覧ください
九尾の狐は全て女性に変身して男性を惑わしていることから女狐と思われ
太鼓奏者にも身のこなしから一人女性が含まれているのが分かります






もうひとつ横笛の演奏をお聴きください。曲は「千の風になって」
装束は陰陽師 安倍康成を模しています。奏者は有名な横笛演奏家です






語り部による民話「若がえりの水」も動画に撮りましたが、ここでは
載せきれませんのでご覧になりたい方は下のリンクでどうぞ

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